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■今週の市場展望

著者:青柳孝直

11/30号

『特集:高度成長時代を駆け抜けた“強すぎた横綱”北の湖』
  1. 大相撲九州場所13日目の朝、突然の訃報が流れた。「日本相撲協会・北の湖理事長死去」。あれ、昨日まで恒例のコメントを出し、横綱白鵬の“猫だまし”を批判してたんじゃなかったっけ?病名は直腸ガンによる多臓器不全。享年62歳。
  2. 1953年5月、北海道壮瞥町に生まれる。67年1月、中学1年生で初土俵。当時は新弟子検査が通れば中学1年から相撲がとれた時代だった。71年5月新十両、72年1月新入幕、74年1月幕内初優勝し場所後に大関に昇進、74年7月最年少の21歳2カ月で横綱昇進。劇画の世界の“出生街道まっしぐら”だった。
  3. 横綱に昇進して4~5年の充実期、あまりの強さに「(たまには)負けろ!」の声が飛んだ。勝った時、負けた力士に手を差し伸べず、肩をゆすって花道を引き揚げた。北の湖自身も倒れた時には手を借りなかった。それが北の湖の流儀だった。
  4. ただそうした“憎まれ役ダンディズム”は、一般的には“ヒール(悪役)”にしか映らなかった。当時、嫌いなものは何かと聞かれたら「江川、ピーマン、北の湖」と

    答えるのが普通とされた。「巨人、大鵬、卵焼き」の裏返しの表現だった。
  5. 横綱としての晩年、1984年5月に全勝で24回目の優勝。これが北の湖の最後の優勝となる。85年1月、31歳で引退。両国国技館完成を最後の花道に、現役力士への未練を断ち切ったのだった。
  6. 力士としての北の湖の経歴は、1973年に変動相場制に移行し1985年9月のプラザ合意を迎える日本経済に酷似している。戦後の日本は朝鮮戦争を回復のきっかけとし、70年代には世界の経済大国・債権大国に上り詰めていく。そしてプラザ合意以降は、円高・ドル安が作為的になされて「(強すぎる)日本の一人勝ち」が修正されていく。
  7. 85年の引退後は一代年寄「北の湖」を襲名、「北の湖部屋」を創設。

    2002年日本相撲協会理事長に就任。

    08年大麻問題などが発覚、4期目の途中で辞任を余儀なくされる。

    12年に異例の再登板。

    14年公益法人移行後、評議会の決議を経た初の理事長就任。
  8. 21世紀に入った後の日本の大相撲は、熱狂・若貴ブームが去り、モンゴル勢の躍進もあり、大相撲人気が一気に下火となった。大麻問題やら賭博問題やら八百長問題やらが次々に噴出、ある意味では相撲界全体の環境汚染による暗黒の時代を迎えることになる。そんな危機的な時期を支え切ったのが理事長としての北の湖だった。
  9. 振り返って、「横綱北の湖の活躍した時代」がたまたま日本経済の上昇期であり、「北の湖理事長の時代」がたまたま日本経済の修正期だったという言い方ができるのかもしれない。

    正直言えば自分は、ヒールを貫く力士・北の湖を好きになれなかった。

    ただ激動する時代の角界を背負い、鮮烈に駆け抜けていった北の湖という

    稀代の名力士をうらやましくも思うのである。

    またひとつ「戦後の昭和の時代の象徴」が逝っていった。
青柳 孝直
(あおやぎ・たかなお)
【略歴】
国際金融アナリスト
1948年 富山県生まれ。
1971年 早稲田大学卒業。
世界の金融最前線で活躍。日本におけるギャン理論研究の第一人者との定評を得ている。
著書は、『新版 ギャン理論』『日本国倒産』など多数。翻訳書としては、『世界一わかりやすいプロのように投資する講座』など。

連絡先:
株式会社 青柳孝直事務所
〒107-0052
東京都港区赤坂2-10-7-603
TEL:03-5573-4858
FAX:03-5573-4857


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